ラバウル

ラバウル(Rabaul)はパプアニューギニア領ニューブリテン島のガゼル半島東側、
良港シンプソン湾を臨む都市。東ニューブリテン州の州都である。

ラバウルはコプラやコーヒー、ココアの産地として有名。
なお、周囲は火山地帯として知られ、シンプソン湾自体も実はカルデラである。



第二次世界大戦中の1942年には日本軍が占領し、今村均陸軍大将などの指揮によって東南方面への一大拠点が築かれる。ラバウル航空隊の基地があり連合軍側からはラバウル要塞と呼ばれた。陸海軍合わせて9万余の日本軍が配置された。
連合軍は、反攻にあたり頑強な抵抗が予想されるラバウルを占領せず包囲するにとどめたため、終戦時まで日本軍が保持することとなった。なお、食料は自活により豊富であった。
また、オーストラリア軍は日本軍占領時に大きな損害を出したためか、
他の連合軍に比べ勇猛に戦ったという。
新田次郎の小説『火山群』には火山観測所に勤務した木沢が描かれている。


火山の噴火
1994年、近郊のタブルブル火山(Tavurvur)とブルカン火山(Vulcan)の噴火によって5m以上の降灰が市街を襲い大きな打撃を受けている。住民は近郊の山林に避難し、ラバウル空港は放棄され、20km離れたココポの町に新空港と政府機関が移転した。ラバウル付近では各国の援助で再建が進むものの、旧市街は降灰に埋もれ放棄されたままである。


ラバウル航空隊(ラバウルこうくうたい)とは太平洋戦争当時、ニューブリテン島のラバウル基地に集結しこの空域に展開して戦った海軍・陸軍の戦闘・爆撃・偵察・水上・各航空隊の総称である。各航空隊は本部をラバウルに置き作戦に呼応してニューギニアとソロモン方面の各基地を移動転戦した。日本海軍航空隊は前半は第21・26航空戦隊、後半は第22・25・26航空隊を主力とした。ガダルカナル攻防戦以降多数の航空隊が参戦したが、
1943年後半以降については、いわゆるラバウル海軍航空隊とは主に二〇一空、二〇四空、二五三空、七〇一空を指す。



概要
ラバウル航空隊は基地航空隊としてまずポートモレスビー方面に進出した連合軍航空隊と戦闘を繰り広げ、練度高く比較的平穏な大戦初期には損害率15対1という圧倒的な勝利を報告した。しかし、南部ソロモン方面で開始したガダルカナル島をめぐる陸海の熾烈な戦いでは基地航空隊は航空消耗戦に突入し、攻撃機隊は往復2000kmの長距離飛行の進攻作戦を強いられ、被弾に弱い機体と激しい疲労で、貴重な熟練搭乗員と機体を多数失いつつ連合軍に敗退した。

1943年に入り連合軍に米英新型航空機が順次登場し攻防が激化する中、6月末からは中部ソロモン、ニューギニアの両方面で連合軍の本格反攻が開始され、海軍・陸軍は補給力減衰し順次後退した。

10月から激化した連合軍の空襲により空前の大規模迎撃戦が開始され、ラバウルは戦闘機隊を中心とする迎撃基地となった。1944年1月を過ぎて弱体化がはじまり、1月初めに201空が消耗し再建、続いて1月末には204空幹部が後退。2月17、18日にはトラック島が空襲(トラック島空襲)されて再建中の204空が壊滅したため、2月20日253空の大部分とラバウルに進出していた第二航空艦隊がトラック島に撤収。日本軍は南太平洋方面への補給線維持が困難になると共に、戦力としてのラバウル航空隊は事実上消滅した。


[編集] 歴史
ニューブリテン島ラバウルは連合国軍からはラバウル要塞と呼ばれており、対米海軍・米海兵隊のソロモン方面と対米陸軍・英領豪州軍の東ニューギニア方面の2方面に対する攻撃・防御および補給の起点の役割を果たしていた。昭和17年後半から18年末までニューブリテン島上空の航空戦では、日本側は海軍・陸軍の主力戦闘機、偵察機、艦爆機、陸攻がラバウル航空戦に参加しつづけた。対する連合軍側もあらゆる新型戦闘機、艦爆、爆撃機を投入したことが知られている。


太平洋方面・開戦まで
(1941年12月8日 南雲機動部隊、ハワイ奇襲、日米開戦) 
(1941年12月8日 台湾基地海軍航空隊の比島渡洋攻撃、在フィリピン米空軍を掃討) 
(1941年12月10日 中攻隊:美幌空・元山空・鹿屋空、マレー沖海戦で英戦艦を撃沈) 

ラバウル航空隊の誕生
1942年1月20-22日 南雲機動部隊、ラバウル空襲・制圧

1942年 1月25日 水上機部隊、ラバウル地区進出 
1942年 1月31日 千歳空分遣隊の96戦、空母瑞鶴、翔鶴で空輸、ラバウル到着。 

飛行隊長兼司令は岡本晴年大尉、吉野二飛曹、西澤二飛曹、石川二飛曹たち。未だ整備員不在で搭乗員のみ先着、分隊長河合大尉たちが出迎える[3]。 
1942年 2月10日 千歳空、4空に編入され、陣容改め発足
(森玉司令、宮崎飛行長、岡本飛行隊長) 
1942年 2月20日 4空中攻隊、ラバウル攻撃米機動部隊の接近を察知し雷撃で反撃 

緒戦期
約1週間に一度、敵10数機との航空戦 
1942年 2月24日 ニューギニア島東南部、ポートモレスビー基地攻撃始まる 
(1942年 3月 7日 南海支隊の一部がサラモア、海軍陸戦隊がラエに上陸。
以降、終戦まで続くニューギニアの戦いが始まる) 

1942年 3月31日 原田機96陸攻乗組員一同、
モレスビー基地陣地へ自爆命令で特攻「3月31日 付近天候晴れ」

1942年 4月 台南空ラバウル着任(斉藤司令、中島正飛行隊長)、
4空の戦闘機隊は台南空に編入

1942年 5月 3日 横浜空飛行艇隊、ガダルカナル島ルンガ泊地北東対岸に位置するフロリダ島南端小島のツラギに進出 
(1942年5月8日 珊瑚海海戦) 

1942年 5月 8日 珊瑚海海戦にニューギニア・ラエ戦闘機隊とラバウル攻撃機隊が地上基地から協同作戦で空母艦隊を求めて発進し、別動隊(巡洋艦)を発見攻撃 
1942年 5月末 第1空先遣隊(千歳空主隊からの転入者との混成)
ラバウル着任(山下分隊長)、以後数ヶ月間、数次にわたり着任

ニューギニア東のラエ・サラモアから、ポートモレスビーへの空爆作戦に202空と交互に参加 
(1942年6月5日 連合艦隊(Grand Fleet/General Fleet)ミッドウェー海戦で大敗、空母赤城・飛龍自沈、蒼龍・加賀爆沈) 
1942年 7月末 ニューギニア島東南・ラエ基地戦闘機隊は敵空襲激化のため一旦撤収、
ラバウルへ帰還

連合軍反攻開始ソロモン海、中攻隊の死闘期 
数日に一度以上、敵20機-50機との航空戦 
1942年 8月5日〜6日の両日、浜空飛行艇隊哨戒担当の3機、毎日1時間の哨戒任務で丁寧な海上哨戒せず雲上を飛び、スコール雲下を航行中の低速な大船団を見逃す。 

ガダルカナル上陸作戦の船団編成は、19隻の輸送船と4隻の輸送駆逐艦に分乗した19,000名の上陸部隊を、3隻の航空母艦を含む護衛艦隊が護る大船団、
米軍上層部はこの計画は無謀で成功の見込みは薄いと考えていた
1942年 8月 7日 米大船団によるガダルカナル上陸作戦奇襲に成功。
この日ガダルカナルの戦い始まる。 

1942年 8月 7日 ツラギの浜空、早朝から攻撃され飛行艇全滅。以後48時間耐え島半分を死守したが翌日島の背後に回った米駆逐艦から艦砲射撃うけ全滅 
1942年 8月 7日 ラバウル航空隊はガダルカナル制空権の継続確保のため、中攻を攻撃主力とするガダルカナル攻撃航空作戦開始

(8月8日夜 第一次ソロモン海戦 日本側戦術的勝利、戦略的敗北) 
1942年 8月 台南空、ラバウル任務継続(斉藤司令、中島飛行隊長) 
1942年 8月 7日 2空、艦爆隊と戦闘機隊ラバウル着任(山本栄司令、八木飛行長、隊長代理井上大尉(艦爆)、倉兼分隊長)高速で航続距離短い零戦32型装備。2空の艦爆隊と戦闘機隊は、日本出発時はニッケル産地のニューカレドニア島へ着任予定。艦爆隊はラバウル到着翌日8日のガダルカナル戦に参加し過半数が撃墜された

1942年 8月21日 6空、ラバウル着任(森田司令、小福田飛行隊長)

(8月23日-25日 第二次ソロモン海戦 機動部隊航空戦、第3艦隊に作戦参加した龍驤沈没)

1942年 8月22日 2空と台南空一部、ニューギニア島の東南・ブナ、ラエ基地に進出、
モレスビー攻撃

1942年 9月上旬 2空(零戦32型装備)、
8月末完成したブーゲンビル島北端ブカ基地に前進(山本司令)
1942年 9月 ブーゲンビル島南端ブイン基地完成(米呼称:カヒリ)、
2空(零戦32型)のガダルカナル制空戦支障解決

1942年 9月 3空、ラバウル着任(梅谷司令、榊原飛行長、相生飛行隊長)
1942年 9月 鹿屋空戦闘機隊、中攻隊とともにラバウル着任(小林司令、伊藤飛行隊長)
(9月6日までに駆逐艦での数度の陸揚げ成功、東に川口支隊3000名、西に非戦闘員の設営隊員多数名含む第124岡連隊本隊2200名集結) 

(9月12日夜〜13日夜 川口部隊の総攻撃。海兵隊司令部地を取り先まで進むも敗退) 
(9月18日 米海兵隊第7連隊 4,200名あまりガダルカナルに到着、米側は上陸以来ずっと悩まされていた弾薬・糧食の不足を解消でき、戦力は著しく充実)

(9月末 米海兵隊航空機迎撃体制確立、常時60機の作戦使用が可能になり、基地の専守防衛から島内の日本陸軍を航空機で撃滅する積極策に転換)
(10月初旬 駆逐艦による数次の陸軍部隊輸送成功、
第十七軍百武司令官ガダルカナルへ進出) 

(10月11日 サボ島沖海戦、日本側は古鷹・吹雪爆沈の被害被るが、ガダルカナル島に対する日進・千歳による重火器陸揚げに成功) 
(10月中旬 1航戦、2航戦、ラバウル近海進出) 
(10月13日 戦艦金剛・榛名、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場を猛砲撃で破壊 
山本連合艦隊司令長官命令の作戦、艦隊司令の栗田中将は護衛空母がないことを理由に反対したが山本GF司令長官から「私がトラック島停泊中の戦艦大和で出る」とまでいわれ作戦を承知。36cm主砲弾、砲撃時間1時間25分、金剛から三号弾104発、榛名から零式弾189発、残り徹甲弾、計900発以上着弾。米飛行機は(生き残ったのは1機のみ、あるいは在90機中戦闘機35機・艦爆7機のみ)飛行に十分なガソリンがない危機的状態が10月20日すぎまで続く。10月26日時点でもガダルカナル防衛機は戦闘機23機、艦爆16機、艦攻雷撃機1機の少数状態 

[編集] 連合軍、ガダルカナル戦優勢へ
ソロモン海、陸海空の死闘つづく 
1942年11月 台南空消耗、本土帰還命令により
零戦機材を残し輸送船で内地へ戻り豊橋基地で再建に入る
1942年11月 3空、202空と改称し中部太平洋ケンダリーで練成
(岡村基春司令、相生飛行隊長)

1942年11月 2空、582空と改称してラバウルで任務継続(山本栄司令、井上隊長代理、倉兼分隊長)現地で編隊空戦訓練、飛行隊長はのちに進藤三郎飛行隊長になる

1942年11月 6空、204空と改称してラバウルで任務継続(森田司令、小福田飛行隊長)

1942年11月 鹿屋空、253空と改称してラバウルで任務継続(小林司令、真木飛行長)
1942年11月 252空(旧元山空)、
編隊空戦特訓してラバウル着任(柳村司令、菅波飛行隊長、武藤金義、宮崎勇ら)

1942年11月14日、ガダルカナル島へ最後となる第2次強行輸送作戦実施。輸送船1隻に護衛駆逐艦1隻をつけ突入擱座を覚悟して高速大型輸送船11隻がガダルカナル島に突入[30]。早朝から米軍機8派のべ100機による攻撃に対し、日本側は零戦のべ32機、水上機のべ14機が上空直衛に当った。輸送船員達に見えた限りでは朝から船団上空にいて米軍機を迎撃したのは水上機だけで、身軽な米軍戦闘機に簡単に撃墜されながら次々と突っ込んでいったと伝える[31]。あるいは、同日同戦域で船団上空警戒にあたったのは基地航空隊および空母飛鷹の零戦隊であって、来襲したB-17および米空母機と空戦した、とする[32] 
1942年12月 この時点で一式陸攻と中核主力、練達の中攻乗組員たちの大半を消耗、以後確実な決定力伴った難易度高い大作戦困難になる(編隊攻撃による夜間雷撃)[33] 
701空(美幌空)、702空(4空)、703空(千歳空)、705空(三沢空)、707空(木更津空)、752空(第1空)、753空、755空(元山空)の各中型陸上攻撃機部隊 
1942年12月末 南部ソロモン・ガダルカナル島からの撤退決定(東京・御前会議にて) 
1943年 1月末 陸攻夜間爆撃開始。海軍艦爆隊、昼間攻撃参加[34] 
1943年 1月末 陸軍航空ラバウルに合流し昼間攻撃参加、機材は一式戦キ43、二式複戦キ45改(夜間)、爆撃、偵察キ46、後に三式戦キ61参戦。

陸海軍に有名な1943年春の三式戦キ61大編隊、トラックからの移動中多数機損失の大事故は、キ61が試作審査開始1年経過し液冷エンジン周りのトラブル頻発するなかでの強行出撃という中、発生した。ラバウル陸軍司令部では、液冷エンジントラブルで一旦基地に戻り離陸やり直したため誘導機に合流できず単発機編隊で風を修正せずに洋上を進んだため進路が左にそれてほとんどが燃料切れでブーゲンビル島東海岸に辛うじて不時着した[36] 、あるいはスパイ工作員によるコンパスの狂い[37]、あるいは燃料不足(洋上に着水し機から脱出した搭乗員が鱶に食われた)と伝えられた。設計製造の川崎飛行機の調査により、逆止弁すり合わせ工作精度が悪く翼の負圧側に開口していた空気抜きの孔から、
燃料が漏れた(吸いだされた)ための燃料不足であると判明。全く申しわけないミスと陳謝。 
1943年 2月初 南部ソロモン・ガダルカナル島から撤退完了

戦いの潮目変化数日に一度以上、敵50機-80機との航空戦 
1943年 2月 戦闘機隊 201空・204空・582空、ブーゲンビル島南端ブイン基地に進出 
以後、制空戦と中部ソロモンへの輸送船団上空直掩任務[40] 
1943年 3月 3日 陸軍輸送「81号作戦」(ダンピール海峡の悲劇)上空直掩[41] 
ニューギニア東南ラエへの輸送作戦。米軍機に補足され輸送船団壊滅。以後このニューギニア島東〜ニューブリテン島間の海域の制海権を失い、
潜水艦か大発による夜間小規模輸送になった。 

1943年 4月 日本海軍、「い号作戦」発動(4月2日 - 4月17日)、作戦期間中は2航戦の飛鷹、隼鷹隊がラバウル進出(Y作戦:ニューギニア方面、X作戦:ソロモン方面)[42] 
1943年 4月18日 山本五十六連合艦隊司令長官ブイン近くで
搭乗機を撃墜され戦死(海軍甲事件) 

1943年 5月14日 251空(元 台南空)ラバウル再進出
(小園司令、中島飛行長、向井飛行隊長)
1943年 6月16日 ガダルカナル島ルンガ泊沖航空戦
以後、南部ソロモン制空権を喪失 

連合軍全軍、東京へ進軍開始本格的反攻 
1943年 6月30日 中部ソロモン・レンドバ島に米軍上陸 
6月30日、ニューギニア島危機、東南・サラモア攻略作戦開始、
連合軍陽動作戦で南のナッソウ湾上陸

1943年 7月上旬 レンドバへの陸軍爆撃機隊と海軍戦闘機隊協同作戦が2回実施される。攻撃で与えた在地連合軍ダメージ大きく効果あったが2回で中止になり
海軍戦闘機搭乗員側に不満が残った。

1943年 7月15日 201空、ラバウル着任(中野司令、小松飛行長、河合飛行隊長)[48] 
1943年 7月中旬 2航戦全機、ラバウル経由でブインへ進出[49] 
1943年 7月中旬 ラバウル陸軍航空、ニューギニア攻防・反撃のため両面作戦に入る。 
陸軍14航空(68戦隊、78戦隊、司令部戦隊数機、爆撃部隊)ウエワクとの間を移動・往来以後、ニューギニア島東南部および海峡を越えたニューブリテン島南西のツルブ、マーカス岬の両方面を担当し1943年12月にも68戦隊は爆撃隊とともに海峡を越え
マーカス岬防衛戦闘へ出動継続

( 8月、ニューギニア島危機、東南・サラモア陥落) 
( 8月16日〜17日 ニューギニア島中央の陸軍14航空ウエワク基地が連合軍奇襲うけ100機地上破壊される。一時期作戦続行困難に陥り、以後完全守勢となる) 
1943年 9月 1日 251空は消耗により解散し、搭乗員は201空と253空へ転属[51] 
1943年 9月中旬 中部ソロモン・ニュージョージア島ムンダ基地放棄 
9月、ニューギニア島危機、東南・ラエ陥落、地上軍は死のサラワケット越えでキアリへ脱出 
( 10月〜翌年1月まで、ニューギニア島危機、東端・フィンシュハーフェン戦継続) 
1943年10月 北部ソロモン・ブーゲンビル島南端ブイン基地放棄脱出、ラバウル帰還命令[52] 
1943年10月27日 ブーゲンビル島南端938空水上基地に隣接するモノ島を米軍占領[53] 
1943年11月 1日 日本海軍、「ろ号作戦」発動 
1943年11月 1日-13日 ろ号作戦中1航戦ラバウルに進出、
作戦終了時半数を消耗し一部を残し引上げ

1943年11月 1日 米軍、ブーゲンビル島中部西海岸へ上陸、タロキナ飛行場建設開始 
1943年11月 5日 ブーゲンビル島南端ショートランド水上機基地人員は徒歩で北端ブカへ退却
 
1943年11月 8日夜、日本陸軍第十七軍(主力第六師団)、タロキナ第一回目地上総攻撃 
( 第一次〜第六次ブーゲンビル島沖航空戦、1航戦の大半は第三次まで参加)[56] 

ラバウル大航空戦
1943年11月-1944年2月20日 連日敵100機-300機との戦闘 
1943年末、この時期のラバウル司令部は焦燥の色濃く、
数ヶ月前にもっていた快活さを失ってしまった

201空・204空・253空による迎撃戦、
連日数百機の戦爆連合が押し寄せ、1月〜2月は一日数波、激化

1943年11月14日 218空分遣隊ラバウル着任、201空へ編入[59] 
1943年12月15日 201空消耗により幹部後退決定、残存201空搭乗員の大半は204空へ転属

1943年12月15日 ニューブリテン島西南端グロスター岬に連合軍上陸、
ラバウル海軍戦闘機爆撃攻撃

1943年12月21日 陸軍68戦隊キ61 三式戦と軽爆の戦爆連合ウエワクから海峡を渡りマーカス岬(米呼称:アラウエ)攻撃[62] 
1943年12月20日 ブーゲンビル島北端のブカ水上基地隊、
駆逐艦でラバウル湾東南岸の松島基地へ後退

1943年12月23日-27日 ニューブリテン島南端ガスマタへ連合軍上陸、戦闘機による爆撃攻撃 
1944年 1月17日 ラバウル上空迎撃戦で圧勝、翌日東京で上奏、御嘉賞される。[64] 
内地から日映ニュース班来訪し連合軍/日本軍に唯一存在するラバウル空戦の実写フィルム「南海決戦場」迎撃戦 69対0 を撮影[65] 
1944年 1月24日 204空消耗により幹部トラック島へ後退、
生存204空搭乗員の大半は253空へ転属

1944年 1月25日 ラバウル南東方面 草鹿司令長官の要請で第2航戦ラバウル着任、
1ヶ月後1/3に消耗
(ブーゲンビル島-ラバウル間洋上のグリーン諸島を連合軍上陸占領) 
1944年 2月12日 夜8時、敵艦船数隻による官邸山の陸軍司令部砲撃[68] 
1944年 2月14日 深夜、敵艦船数隻によるココポ海岸砲撃[69] 
1944年 2月16日 夜間、敵艦船数隻によるココポ海岸砲撃(トラック攻撃陽動作戦)[70] 
1944年 2月17日-18日 トラック島全島、米機動部隊の奇襲、大空襲をうける。ラバウル向け補給用200機地上破壊され、航空機全滅。湾内の艦船沈没多数。[71] 
1944年 2月20日 253空と第2航艦の全機(戦闘機約30機・陸攻数機)トラック島へ後退[72] 
253空(福田司令、岡本晴年飛行長) 
第2航艦(城島司令官、隼鷹:
日高飛行隊長、飛鷹:小林飛行隊長) 
岡本晴年 元海軍中佐は「零戦は強かった、
18年、19年になってもまだ強かった」と回想証言した

最後のラバウル航空隊
自活と、基地技術者と残存航空隊員たちによる復元機での偵察・拠点爆撃作戦 
1944年 3月上旬 零戦数機を修理復元[74] 
1944年 3月15日 水上機隊、ブーゲンビル島ブインへ再進出[75] 
(現地残存201空・204空・582空残留員で再編成) 
ブーゲンビル島南端旧ブイン基地に残留した第八艦隊司令部、第一根拠地隊司令部、佐世保鎮守府第六特別陸戦隊は水偵機をジャングルの隠れた入江・川に引き込み、
隠密作戦続行 1944年 3月8日〜25日、日本陸軍第十七軍、タロキナ飛行場へ総攻撃。 
ラバウル航空隊、
陸軍百武中将の要請に応じ爆装零戦によるタロキナ飛行場夜間爆撃を行い失敗。

( 3月末、太平洋のパラオに米機動部隊来襲、海軍乙事件発生) 
1944年 6月 新たにラバウルにて105空開隊、復元零戦で構成、アドミラルティ泊地偵察[78] 
( 6月11日-12日、マリアナ諸島方面は米機動部隊の大空襲をうけて基地航空隊壊滅) 
( 6月上旬、パラオ大空襲で、移動途中の海軍基地航空隊決戦部隊が大消耗) 
( 6月19日、サイパン沖「あ号作戦」日米機動部隊決戦に日本側大敗) 
( 7月初め、サイパン島陥落、以後テニアン、グアムと続いて陥落) 
1944年10月 ラバウル陸軍独立飛行83中隊、復元100式司偵完成、トラック島へキニーネ受領

1944年10月 105空、復元零戦でアドミラルティ泊地偵察再開 
1944年10月-1945年8月まで、海軍105空零戦と陸軍独立飛行83中隊100式司偵、アドミラルティ泊地黎明偵察継続、海軍958空零式三座水偵は補給と偵察続行[80] 
フィリピン方面出動準備中の米艦隊動向を敵後方から隠密偵察活動、情報を内地へ報告 

( 10月、太平洋のフィリピン攻防戦、捷一号作戦発動、神風特攻開始) 
1944年年末 ブイン水上基地の938空解散、ブーゲンビル島内で第85警備隊になる。 
1945年 ニューブリテン島島内前線拠点で地上戦続行中、小守備隊の玉砕相次ぐ 
1945年4月28日 ラバウル、復元97式艦上攻撃機2機でアドミラルティ泊地夜間雷撃[81] 
1945年 7月中旬 ブーゲンビル島南端旧ブイン基地員、復元零戦22型1機密林の中で完成
( ソ連侵攻開始) 
1945年 8月15日 終戦 
敗戦により飛行可能状態の復元零戦21型と復元100式司令部偵察機は豪州軍に、ブインの復元零戦22型はニュージーランド空軍に接収された。 

評価
昭和17年秋のガ島を巡る航空消耗戦を外山海軍少将は「無意味な死闘」と呼んだ。貴重な熟練搭乗員を失わず温存することで日本軍は連合軍に対して史実より健闘できた可能性はあるが、連合軍側も戦術を変えた可能性がある。アメリカ軍でもラバウル航空隊の実力を高く評価しており、ニミッツ、キンケード、ハルゼーもその武名を恐れていた。とくに勇猛で名高いハルゼーも息子が米空母のラバウル空襲の際戦死するのではないか不安だったと戦後の回想録に書かれている。ラバウルでの戦死率の高さから、アメリカ軍搭乗員からはラバウルはドラゴンジョーズ(竜の顎)と恐れられた。これはラバウルの地形が竜の顎のような入り組んだ湾であることと同時に、侵攻すれば大損害を被ることを指している。


著名なエースパイロット
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