SBD

SBD (爆撃機)
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SBD ドーントレス

 
アメリカ海軍のSBD-5

用途:急降下爆撃機 
設計者:エド・ハイネマン 
製造者:ダグラス・エアクラフト 
運用者 
アメリカ(陸軍、海軍、海兵隊) 
イギリス(海軍) 
フランス(自由フランス軍) 
初飛行:1940年5月1日 
生産数:5,936機 
生産開始:1940年 
表示SBDはダグラス社が第二次世界大戦の前に開発した艦上偵察爆撃機。名前のSBは偵察爆撃機(ScoutBomber)を意味し、Dはダグラス社を意味する。

日本における零戦、英国におけるスピットファイアと同様、第二次世界大戦の殊勲機としてアメリカ海軍の最も愛されている機体の一つで、急降下爆撃機や偵察機として第二次世界大戦のほぼ全期間において運用された。アメリカ海軍だけでなく陸軍や海兵隊でも運用された他、少数がイギリス海軍に供与されている。

第二次世界大戦の太平洋戦線においては、緒戦期のアメリカ海軍の苦しい時期、ミッドウェー海戦を契機とする戦局の逆転、そして勝利への階段を一気に駆け上り始めるまでを見届けた歴史の立会者であった。




開発・配備
当初基本設計はノースロップ社でXBT-2の名称で行われていたが、ダグラス社が設計を引き継ぐこととなり、XSBD-1と名称が変更された。当初から引き込み脚を採用するなど、当時の急降下爆撃機としては画期的なスペックであった。

機体形状はレシプロ単発軍用機として一般的なものであり、低翼配置の主翼と尾輪式の着陸装置を持つ。フラップは穴空き式であり、ダイブブレーキを兼ねるようになっていた。

1939年4月より初期型の海兵隊用SBD-1が57機、海軍用SBD-2が87機量産された。部隊配備は1940年に海兵隊から開始されている。しかし、欧州を席巻したドイツ空軍の急降下爆撃機Ju 87 スツーカに衝撃を受けた軍は性能が不十分であると判断し、エンジン・防弾性能・機銃攻撃力などに大幅な改良を加えた中期型のSBD-3を584機生産した。このSBD-3は同時期に使用された九九式艦上爆撃機と比較して速度、航続距離、操縦性、搭載量などはるかに凌ぐ性能であった。

新型艦上爆撃機SB2C ヘルダイバーが登場したが、SB2Cは海軍側の無茶な要求によって若干安定性に難のある機体になっており、操縦性に難点があった。そのため、引渡し後の部隊配備は遅々たるものだった。一方でドーントレスは無線航法装置や空中レーダーを装備した、後期型のSBD-4が780機生産され、その後もSBD-5、SBD-6と改良が加えられた。

母艦搭載の必要がない海兵隊は終戦間際まで本機を運用し、SBD-6のほとんどは海兵隊向けであった。その後、SB2Cの高性能化で母艦部隊は機種交換が進められ、ようやくSB2Cに道を譲り、終戦間際に生産が始まったA-1 スカイレイダー汎用攻撃機の登場でドーントレスはその姿を消す。しかし、SBDは太平洋戦争中の全期間、現役状態であったと言える。

なお、陸軍でもスツーカの活躍に衝撃を受けてSBDの空母用装備を取り外したものが、A-24 バンシー(Banshee)として採用されている。総計953機のA-24が生産され、海軍でSBDが引退した後も使用され続けた。A-24は1948年の空軍独立時にも在籍しており、それらは攻撃機カテゴリーの廃止と共に戦闘機カテゴリーに移ってF-24と改称している。


戦歴
 
第6爆撃機隊のSBD-3。母艦は空母エンタープライズ (CV-6)だが、ヨークタウン (CV-5)に着艦。 
トラック諸島攻撃に参加するSBD太平洋戦争(大東亜戦争)において最初にSBDを実戦使用したのは、海軍ではなく陸軍であった。フィリピン・オーストラリア・ニューギニアの航空基地に配備された陸軍向けのA-24が、南進する日本軍と戦闘を繰り広げた。

海軍ではSBD-3が珊瑚海海戦で実戦デビューし、コンビを組むはずの雷撃機TBD デバステイターの性能が貧弱で日本軍艦艇に有効な打撃を与えられない中、軽空母祥鳳を撃沈し、空母翔鶴を中破させた。

ミッドウェー海戦においては、TBD(及びこれが初陣のTBF)が戦果を挙げられずに日本機動部隊の直掩戦闘機に低空でバタバタと撃墜され、全滅に近い損害を受ける中、高空から防空の隙を突いて日本機動部隊の4空母赤城、加賀、蒼龍、飛龍の撃沈に貢献した。

ソロモン諸島での海戦以降は、TBDに代わって配備が始まった画期的な新型雷撃機TBF アベンジャーと共に活躍した。TBFの不具合が解消されるまで、SBDは艦艇攻撃の主役を担い、多数の日本軍艦艇を撃沈した。

また、SBDは良好な運動性と強力な前方機銃を活かし、状況によっては日本軍の戦闘機に立ち向かっていくこともあった。

なお、日本海軍のエースパイロットとして世界的に有名な坂井三郎は、ガダルカナル島上空で、編隊で飛行する本機を後部銃座の無いF4Fと誤認して不用意に接近したことから、後上方旋回機銃の集中銃火を浴びて頭部に片目をほぼ失明するほどの重傷を負い、戦線離脱を余儀なくされた。彼は後年、著作の中でこれをTBFと記述している。



 


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